昭和43年7月12日 朝の御理解
御理解第10節に、「神が社へ入っては、この世が闇になる」と、御理解第10節。
ところが教会にこうして奉祭してある神様。やはりお社が出来て、お扉があって、そのお扉の中に神様がこの(おあします?)という形式がとられてある。
お互いの家庭で拝んでおる神様もやはりそうである。これはあの、床の間なり、御神前なりを設えて、そこにお社を拝ませてもらって。けれども神様がね、「神が社へ入っては、この世が闇になる」と仰る、その社の中に収まってしまわれる神様ではないという事。
けれども、こうして私共が拝むという事。御祈念をするという事。又はこう礼拝、ね、礼拝をいたします。ですからその礼拝の姿。礼拝の心。それがそのまま、私共の実生活の中にあらなければならんというのが、お道の信心。
いうなれば、この神様は社の中にこもってござるのではなくて、天地に満ち溢れておられる神様。「神に合いたいと思えば、庭の口に出てみよ。空が神、下が神」という風にも教えておられる。「神が社へ入っては、この世が闇になる」というのは、どういうような意味の事であろうか。
私達は日々教えを頂く。ここで御祈念の時間に、同じ時間をはかって皆が一緒に勢祈念、皆が一緒に勢を揃えての御祈念をさせてもらう。そういう、そうするとやはり、神様はここに(おあします?)という風に取れるのですけれども。
「神が社へ入っては、この世が闇になる」そこに私共が御神前で、受ける心の状態。ね、御祈念をさせて頂いて、今願っておる心の状態が、お互いの日々実生活の現場において、同じものが現されて行くという事が、いよいよ自分の周囲、まぁ世の中と言いたいけれども、まぁ自分の周囲という事にいたしましょうね、自分の周囲が光の世界であり、恵まれた世界であるという事になって来る。
もし、例えば私共がお参りをしておるというだけ。御祈念をしておるというだけ。こうしてお広前にお引き寄せ頂いておる時だけ。もし有り難いというのであるならば、それは、もうすでに神様を社の中に入れておるようなものであって。もうすでに世界は闇になるという、世の中が闇になると仰る、これをまぁ世界と言いたいけれども、まぁ自分の周囲が闇になる。自分の周囲が不安定である。
私はこの御理解はそういう風な意味の事だとこう思うんです。同時にここには信心の稽古に来る所とこう仰るから、一つの拝む対象というか、拝む焦点というか。人間はそれぞれに、やはり感覚とかね。最近では、お道の信心、このお神様を奉祭する要式とか、形式というものが非常にやかましくいわれております。
ですから、こういうお社なんかはいらない。まぁそういう風に、まぁお道の信心の建前からいうと確かにそうです。ね「神は社の中に入っては、世の中が闇になる」と仰るのですから、こういうお社の中に、しかもお祭りなんかの時にはあのお扉を開いてですね。いかにも中に入ってござるごたる、神様が。
そして又、今度はお祭りが済んだら、あのお扉をギイギイ、ギイギイ言わせてから、閉めたり開けたりして、さぁ中にもう収まって下さい、といかにもいうておるようである。だからあれとても、そういう儀式ではなくてですね、人間の持っておる私は感覚といったようなものがですね、をいやが上にも、有り難いものにする為の一つの私は宗教的演出だと思う。
これは金光教だけじゃない。ね、キリスト教だって、仏教だって同じようなことが言えるとこう思う。ね、麗々しくお祭りがしてある。その前に様々な儀式を行う。確かに有り難くなれますよね、特にあの仏教なんかは、鐘を叩いたり、(もっきょう?)を打ったり、いわゆる数珠を(つまむい?)ながら、教門でも長々と一心不乱にあげておると、本当に心が清まる。心が本当に有り難いものになって行く。
あの仏教なんかは、それこそ慈顔溢れるような仏様が何体もこうお祭りしてある。それを見ておるだけでも心が安らぐ。ね、ですからこれは他の宗教でも同じだと思うんですけれどもね、そういう安らいだ心の中に有り難い、嬉しいというか、麗しいというか、そういう心を仏前なら仏前、神前なら神前によって頂く。
そのための私は一つの演出だと。演出効果を、やはりいやが上にも頂かせて頂くための、ね、一つのそれは手段。そこで教祖は、仰っておられる。「畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが神の中を分けて通りおるようなものぞ」と仰っておられる。
ね、ですから私共がここでお参りをさせて頂いて、そこに敬虔な祈りを捧げさせて頂いて、心が清まる、心が安定する。そういう心で、そういう状態をそのまま自分の生活の現場に生かして行こうとするところに、私はお道の信心があると思う。
ですから拝んでおる時と、拝んでいない時というものが、ね、違ってはならないというのである。そこんところを繰り返し稽古させて頂て行くところにです、ね、いわゆる教祖様が実感されたであろう「畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と仰る実感が私共の心の中にある。
有り難い、勿体無いことじゃなぁと。そういう心で様々な生活が営まれていく。だからおかげを頂くはずだという事になるわけですね。ところが私共が拝んでおるけれども、確かに御神前、お広前では有り難い気分に浸らせて頂いておるんだけれども、それが教会を一歩外へ出ると、もう世の煩わしさというか、そういうものに取り紛れてしまって、神様を取り失うてしまう。
もうそこには神様の例え栄光が、そこに輝いておってもそれを見ることも、心に頂きとめることも出来ない。いわゆる世界は闇である。そこで私達はです、日々そうして信心の稽古をさせて頂いて、御祈念をさせてもらう、ご理解を頂かせてもらう、清まった上にも又有り難いものを頂いて帰らせてもらう。
そこからが、私は他の信心と少し変わってくると。ね、そこに御取り次ぎの働きというものがあると思う。仏教だって、キリスト教だっておそらく教会に参り、仏前にぬかづいて御祈念をしたり、お説教を頂いたりして心の中に有り難いものを開いたり、頂いたりして、それがそのまま実生活の中に現されるとするならです、私はやはりそこに生き生きとした霊験というものはあると私は思う。金光様に限ったことはないと思う。
ところがね、仏様の慈悲も、神のいうなら愛も、自分の心に感じ取る、いわゆるキャッチすることの出来ない心の状態になってしまうから、私はね、おかげを頂くことが出来ないで、のであるように、いわゆる霊験と、いわゆるおかげといったようなものにつながらないことになって来るのですけれども、ここにですね、有り難いという事はです、いわゆる生神金光大神の出現によって、この方生神金光大神の御取り次ぎのお徳というか、御取り次ぎのおかげによって、私共がね、お広前おる時のように(のうこう?)の有り難さはなくても、気迫なものになっておっても、いやなくなっておっても、まさかの時には天地金乃神というに及ばん、金光大神助けてくれといえば助けてやると仰るようなです、そこに金光大神取り次ぎの働きが生活の現場において頂けれるという事。
これは生神金光大神のお取り次ぎの働き、お取り次ぎの徳というものがです、私共が神様を外し、神様を忘れておるような場合であっても、ね、そこにお取り次ぎの働きをここに頂くことが出来るというところにです、私はお道の信心があると思うですね。
そこに、社に入りかけてござる神様を又目の前にです、神を見ることが出来、神の声を聞くことが出来る。神の姿をそこに見せてもらうような、いわばおかげ、はー神様はこのような中にでも、いうならこのような浅ましい私の心の上にでも、神様をうかつにしておる、そういう中にあっても、取り次ぎの働きというものがこのようにしてあっておるという体験を、皆さんは日々なさっておられるでしょうが。それを金光大神取り次ぎの働きによるものなんです。
そういう私は信心がね、繰り返されていわゆる生き生きとした、そこに体験というのと、そうした神様の働きと、私共が日々、これではならん、これではならんとこを改まりに改まって行く中にです、何時の間にか、いわばお広前におる間も、家庭にあっても同じような、いわばバランスのとれた心の状態というものが出来て来る。
そうなってくるところに、何というでしょうかね、お徳でしょうね。お徳が約束されるというか、本当の意味での信心生活が出来るようになってくる。
これは、まぁお恥ずかしい話ですけれども、私自身でもそうなの。そうあらなければならない。けどもやはり神前にぬかづかせて頂いておる時、この御結界に奉仕させて頂いておる時には、まぁある意味合いでですたい、何処から切り込まれても一部のすきもないごと思うとる。
どういう難しい問題を持って見えられてもどっこいと受けられる感じなんだけれども、一度ここを外れたり、下がったりいたしますとです、又いちいち御神前に出てこなければならない。
神様はこの社の中に入ってござるのじゃないのだけれどもです、私達の心が神様から放れておる。それを繰り返して行くうちにですね、(庭?)におろうが炊事場におろうが、ね、便所の中におろうが、いわゆる神の中を分けて通りおるようなものというような、おかげが段々頂けてくるようになる。
私はそれを、自分で今一生懸命精進させてもらって、それでここで、いわゆるここのお弟子さん達に私は言うんです。私が御神前におる時、私がここにおる時、これはもう問題はないけれどね、私がならあちらへ下がっておる。浴衣一枚でおる時がある。裸でおる時もある。
ですから、まぁいうならば何時でもよか。何時でもよいけん先生が今油断してござるというような時に、ポンといっちょ打ち込んでみれて。と私はいうて自分自身の心に何時も、何時打ち込まれるか分からんからという、油断をしちゃならんというようなですね、気持ちを自分で自分の心の中に精進させて頂いておる。
そして、自分ながらハッとするような事がある。はー今どんもし打ち込まれたら、見事にやられてしまうだろうと思うようなことがある。それが段々そういう時間がなくなって、ね、御神前におっても、何処におっても同じ心の状態。いわゆる天地の親神様の働きを十分にそこに現す。いわゆる十全なものにして行く。そのまず稽古をさせて頂いくのは、何というてもお広前。
これをじっと持っていかにゃいけん。鏡の前に立った時だけはにこにこする。にこにこしとらんでも、ちょっと表情の一つぐらい、和らいだ表情をしてみるでしょうが。鏡の前じゃから。髪をなで上げたり、ね、汚れたとこがあっては、それをこうやって落としたり。そしてからこうニコッと笑うてみたり。
だから、その鏡の前に立っておる時のような心持ちでです、じっとそれを持っていかにゃいかん、何処にでも。ところが鏡の前を外れると、自分では気付かんなりに、何と冷たい顔じゃろうか。何とどうして、何時もかつもぶーっと腹かいてござるというようなことになってしまう。
そこでハッと気付かせて頂いて、鏡を前に立てて、はー自分は今こういう表情をしておった、こういう心の状態であったという事をです、何時も心、取り直し取り直し、心を神様に向けていくというわけなんです、私の場合。
なかなか何時も有り難そうな顔(よ?)とか、ね、心の状態とかなかなか難しい。けれどもね、それが何時も自分の心の中に、そうして、いわゆる言うなら、何処におっても神の中を通りおるような実感というものがですね、自分の心の中に頂けて行く時に、そこに充実感というかね、あれを見ても有り難い、これを見ても有り難いという事になってくる。
私共が我情我欲をいっぱい、ね、神様にお願いをしてああしてもらいたい、こうしてもらいたい。というて、まぁ(あくせき?)とした信心をさせて頂いておる間は、その事が良し、いわゆるお取り次ぎの働きによっておかげを頂くにいたしましても、それでは信心によって助かっておる姿とは言えない。
現在この身、このままの中に、もう現在。私共が神のご守護の中にあるんだ。しかも、一度自分の周囲を眺めてみると、はーあれもおかげである、これもおかげである。おかげの中にある、たったそこに一つ、お金がないならお金がないという事だけに難儀をしておるとか。病気をしておる人ならば、ならいいならいい、そこだけが悪いのだとか。
人間関係で、なら他んところどうでも良い、そのこと、そこんところだけが、難儀を感じておるだけで、他んところ全部おかげなんだと。ですから、そこを見らずにおかげの方を見せてもらえれるおかげを頂いたらです、有り難い有り難いという思いが、苦しいというところの、そのところが薄うなって行く。いやなくなって行く。いや、どういう苦しい中にあっても、有り難いなぁというものが頂ける。
そこに、このことの願いは何時の間にかおかげになって行く。真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めと仰るように。ねですから、そういう心の状態を、私共は願っていく所の信心。いうならば、お広前での状態をそのまま、自分の家庭に生活の現場にいかして行けれる稽古を本気でさせてもらわなきゃならんのだけれど、それがなかなか出来ない。出来なければもう神と絶縁しておるようなものなんだ。もうそこは闇の世なんだ。
けれども、ここに金光教の信心させて頂く者の有り難いことは、そういう中にあっても、金光大神取り次ぎの道の働きというものが、そこにあるという事。そこんところが私は有り難い。
そしてそういう、日々お取り次ぎを頂いた、そういう生活の中に、日々をです、過ごさせて頂く中に、日々稽古させて頂いて。お広前におるのも、御神前におるのも、又自分の家庭でおるのもです、生活の現場におっても、それが段々こう狭められて来る。
お話を頂いておる時も、御神前で御祈念をしておる時も同じような。麗麗しく神様が奉祭してある。お供え物がにぎにぎしゅうお供えがしてある。ご神灯が両方に赤々と燃やしてある。
これはやはり、ご神前に座りゃやっぱり心もにぎやこうなるだろう、有り難うなるだろう。大祓いを奏上させて頂きながら、一心不乱に御祈念をしておれば、心もやはり、乱れた心もととのうて来るだろう。落ち着かなかった心も落ち着いてくるだろう。
だからそういう良いものを見たり、良い事を聞いたりするという事だけが、信心ではなくて、それと同じような状態が私共の家庭の中に、はー煩わしい音を聞くことがあろう、もう本当に目を背けたいようなものを見るようなこともあろう。
けれども、そういう事の中にもです、神の栄光が満ち溢れておるという事が段々分かってくるとです、汚いと思うておったものの中にも麗しさが分からせてもらうようになる。
はーいやだなぁ、こういう難儀、こういうような煩わしい問題いやだなぁ、とこう思うておった中にです、神様がこういう煩わしい問題を通して、私をきたえ下さるんだ。私を分からせて下さるんだ。お育て下さるんだという事が分かってくるようになるから、その煩わしい問題も目を背けたり、そこから避けようとしないで、そこに合掌して受けれる状態がそこに頂けれるようになる。
ですから、ここは何処までも、そういう一つのね、こうあらなければならない。今日一日こうあらなければならないというような心の状態をここで作る。その稽古をするところ。ですから、この状態をそのままにお互いの生活の現場に持ち込んでいくということのおかげ。
そこを何時の間にか、ね、又それが目の荒いものになったり、すさんだりいたしてまいりますから、日々稽古させて頂いて行く中に、そこが段々段々、いわゆる信心に、何事にも信心になっていけれるのである。
そこんところを、楽しみにお互いが信心させてもらわなければならない。そういう中にあっても、そういう私共であるけれども、そこに有り難いことは日々、今日、こうこうさせてもらいます。今日は、今日何処何処にやらせてもらいます。今日はこういう難儀の問題が待っております。
そこんところをどうぞ、万事ご都合、お繰り合わせ頂きまして、もう素晴らしき神のタイミングの中に、どうぞ万事お繰り合わせを頂きますようにというて、願うて皆さんが帰る。
自分の心が神様から外れておっても、もう何と素晴らしいタイミング。何という素晴らしい神の働き、それをそこに体験することが出来る。それが金光大神取り次ぎの道の働きだと今日私は申しましたが、今日は大体、神が社へ入ってはこの世が闇になるということ。
私共が神を社の中へ押し込んでしまう。それは私共の心の状態がです、ただ今申しますように、神から放れた心になってくる時に、もうそこは闇であります。神様は、神に合いたいと思えば、庭の口に出てみよ。空が神下が神であり。道を歩いておろうが、畑で肥えをかけておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ、というような実感がです、ひしひし自分の心にも、体にも感じられるような神様を頂いた時に、初めて、ね、神の栄光を十分に受けておる人の、信心のいわゆる生き姿というものがそこにある。
その上にいかに金光大神のお取り次ぎの働きというものが頂けるところに、いわゆる鬼に金棒というかね、十全のおかげというものがそこに頂けてくるのであります。
そういう意味で何時も、自分の心の中に教えという鏡を懐中しておからなければいけん。ね、何時も自分の心の中に入れておかなければならん。何時でも何処でも、鏡を立てて見れれるおかげを頂かにゃならん。ハッて気付かせて頂いて、又取り戻して頂けれるということ。
そこから、信心者のまぁ信心者のみだけが頂けれる法悦とでも申しましょうかね、信心の喜びというものが頂けて来る。その喜びに頂かせてもらえるところのおかげ、喜びはなくてもお取り次ぎの働きによって頂くところのおかげ。この二つが、私はお道の信心の有り難いところじゃなかろうかとこう思うですね。どうぞ。
梶原 佳行